ウツギの日々趣味日記

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【ホリミヤ】WEB漫画のリメイクやアニメ化について思うところ徒然【堀さんと宮村くん】

 

page.1 「ほんの、ささいなきっかけで。」

page.1 「ほんの、ささいなきっかけで。」

  • 発売日: 2021/01/15
  • メディア: Prime Video
 

今季放送中のアニメ「ホリミヤ」。元は「堀さんと宮村くん」というタイトルのWEB漫画で、それを作画を変えて「ホリミヤ」としてリメイクした漫画を、さらにアニメ化したものです(ややこしい)。私はこのアニメを妙な既視感の中で視聴しています。

今日はそんなWEB漫画と、アニメ化に際して思った事をつづります。人によってはちょっと「神経質すぎない?」と感じられる内容かもしれません。

 

堀さんと宮村くん 1巻 (デジタル版ガンガンコミックス)

堀さんと宮村くん 1巻 (デジタル版ガンガンコミックス)

  • 作者:HERO
  • 発売日: 2021/01/08
  • メディア: Kindle版
 

このWEB漫画が連載していた2000年代後半は、私がちょうどWEB漫画を読み漁っていた時期でした。「WORKING!!」や「ヘタリア」もそうです。オリジナルだけではなくて、ゲームの二次創作4コマなんかも延々と読み漁っていました。

一番ハマったのは竜人が沢山出てくる長期連載漫画で、もう絵柄以外のタイトルも内容もすっかり忘れてしまったのですが、どこかで再会できるのではないかと、たまに検索をかけて探しています。同時期にはフリーゲーム漁りにも熱中していましたが、WEB漫画漁りもまた私にとって青春の一部でした。ファンタジー・恋愛・学園もの、なんでもある分だけ時間の限り読み漁りました。

個人サイトに足を踏み入れた時のフレームタグで分けられたあの画面構成。淡々とした、ほの暗い、少し抉ってくるような内容。感情の混乱の生々しさ。2000年代後半はなぜかそういう感じのWEB漫画を目にすることが多く、「うわあ、分かるなそれ」とキャラの一見ちぐはぐな言動に妙に共感してしまったり、ちょっと憂鬱になりつつも読み進めるのをやめられなかったのをよく覚えています。「堀さんと宮村くん」はその時代の雰囲気を多く含んだ作品です。

私はいま、こういった作品が掘り起こされてくることについて「こういうものが表に出てくるようになったんだ」と時代の変遷をしみじみ感じる一方で、「こんな過去から作品を掘り出してこなければいけない時代になっているのだろうか」と、複雑な心境になります。

私は「堀さんと宮村くん」を商業作品として売り出すことに何の違和感もありません。過去作品を引っ張り出してリメイクしなければならないほど話の作り手が枯渇している現状や、再発掘の過程で失われるものについてどうしても思いを馳せてしまうのです。

他者が手掛ける事で失われるもの

誤解が無いように書いておくと、「ホリミヤ」はキャラ造形や台詞など、かなり原作を大事にしている方です。この記事を書くにあたって「堀さんと宮村くん」WEB漫画版と「ホリミヤ」の読み比べもしましたが、持ち味を捻じ曲げたり大幅な改変を加えたりという雰囲気はありません。

それでも、もっと淡々と済ませて良い場面がやたら間延びしていたり、もっと重いはずの場面がさらっと流されていたりということが結構ありました。

特に漫画は「間」の設定がシビアです。空白がどれくらいあるかでまったく読後感が変わってきてしまいます。どんなに絵を見やすくしても、その作者の持っている間の取り方をそのまま写し取ることはできません。4コマ形式から組み替えるなら難易度はさらに跳ね上がります。他人の作品を理解し再編するというのは、それだけの重労働なのです。

また、「堀さんと宮村くん」は生々しい内容も取り扱っているのですが、このリメイクにあたって「毒」の部分はまるまる削られています。アニメ化ではさらに削られるでしょう。私は「堀さんと宮村くん」の119話「ノンコミタル」で繰り広げられる透と由紀のやり取りが好きなのですが(あと透が一番好きだ)、「ホリミヤ」単行本を読む限りではまったく触れられていませんでしたし、そのまま掲載されることは決してないでしょう。構成上の問題か、倫理的な問題で難しい決断を迫られるという事がどうしても出てきます。

けれどもその作品ならではの「暗さ」や「生々しさ」が意図的に抜き取られ、「甘く」「切ない」部分だけが残されてしまうのであれば、もうそれは同じ名を冠した別作品なのではないか、と私は思ってしまうのです。

ここ10年あまり、私が漠然と感じていた「プロとアマチュアの境界」のようなものはどんどん薄れています。今はウェブ上に公開されているものはどんなものでも商業作品になる可能性があり、そこを目指してウェブ上に作品を公開する作者も珍しくありません。私が言及しているような作者のちょっとした毒や持ち味は、売り出す人間にとっては些末な要素でしょうし、売り出すのに「邪魔な」要素として受け取られるかもしれません。

しかしその一見扱いづらい、生々しく暗く、毒を含んだ部分が、実は作者の根幹の部分にあり、作品の軸になっているということもあるのです。毒をすべて抜き取ったあと、残っているのは味のしない抜け殻かもしれません。

原作をある程度尊重している作品ですらこうなってしまうのです。発掘された後に毒という毒を抜き取られ、大衆の目に触れる段になって抜け殻になってしまったそれが、毒も味もない平凡な作品として受け取られる。そんな世界がもう来てしまっているのではないか・・・。

この作品の経緯を見ていて、そんな事を考えてしまいました。杞憂であることを願います。