プリンセスチュチュ
第5回のアニメ見聞録は「プリンセスチュチュ」。2002年から2003年にかけて放送されたオリジナルアニメ作品です。
バンダイチャンネルで視聴。なぜ視聴したのかは記憶が判然としませんが、たしか誰かのまとめたMADかダイジェスト動画がきっかけの一つだったと思います。当時「物語」というものに飢えていた私にとって、バレエによって童話風の物語を展開するというこの作品は、新鮮でありながらどこか懐かしく、強く心を揺さぶるものでした。
この頭身で、少ない主要キャラクターと小さな町で、様々な物語と人間動作の美しさを表現してみせる。今でも愛してやまない作品の一つです。
複数のモチーフが入り乱れる物語
この作品はモチーフが強く意識された作品です。物語を示唆するあらすじの読み聞かせから始まるアバン。「ほんものと物語」の入り混じった町で、「くるみ割り人形」「みにくいあひるの子」「眠れる森の美女」「コッペリア」…様々な作品が溶けあっています。それは音楽からして感じ取れるでしょうし、各話タイトルにも表れています。
あらすじのほんの一部でも知っていれば、ストーリーの中に入り込んでいるいくつかの主要モチーフに惹かれるでしょうし、知っていなくても複数の物語が混在する事をおぼろげに感じて、とても不思議な感じを覚えるでしょう。
添え物的に引用する作品は多々あれど、複数のモチーフを軸にもっていく作品はとても珍しく、それこそがプリンセスチュチュが展開していく上での土台になっているという点も興味深いです。
ともすれば、ただシュールなだけで終わってしまうバレエの動作も、この複数の世界が交差する物語の中では意味深く感じられます。バレエ好きな方がこの記事を読んで憤慨してしまったら申し訳ないのですが、「バレエの動きでクスッと笑ってしまう」事も含めてこの作品の魅力だと私は思うのです。
「きっとこの世界では笑うような動作ではないのだろう」――この、自分の感覚で推し量ってはいけないルールの上に成り立っている世界がそこにあると思わせることこそが、受け手をめくるめく物語の世界に誘うのです。
複数の世界をバレエで繋ぎ直すことで新しい世界が生まれる。プリンセスチュチュはそんな、「物語の素」と「生み出される過程」が強く意識された作品です。
メタフィクションとしての魅力
「プリンセスチュチュ」は作中の未完作品「王子と鴉」を主軸に描かれます。この「王子と鴉」の作者・ドロッセルマイヤーは、ただ物語を自分の望む「面白い」展開と結末に導く為、あひるに干渉します。物語を描いた事がある人間なら、このドロッセルマイヤーの言動を見て思うところがあるのではないでしょうか。
作者というものは、時に愛しい人を争わせ、親友を手にかけ、家族から引き剥がし、主人公を追い詰めます。悲しみに暮れ、孤独に悩み、暗い道に踏み込む主人公を、沢山の言葉や絵や音楽で彩ります。ただ話を面白くするために。
読者も共犯でしょう。物語の中の登場人物からしてみたら、人の不幸話で気晴らしをするようなクズなわけです。「可哀そうな主人公!」なんて泣きながら言うけど、貴方みたいな悲劇好きがいるから可哀そうな主人公が大量生産されるわけでね!
自覚があるならまだ良い方で、善人面をして悲劇的な展開に涙している人間からは狂気さえ感じます。そして、自分もそのうちの一人だという事にぞっとするのです。
私は、誰かの作品を読んでいる時、自身で小説を書いている時にそんな考えが頭をもたげる事が良くあります。その為に登場人物を殺すのを躊躇ったり、可哀そうな展開を回避したり、罪滅ぼしに強い力や別の幸せを用意してあげるという事をよくやるのですが、そんなものは登場人物からしてみれば免罪符にもならないでしょう。
一方で、物語というのは不思議なもので、そんな作者の意図や葛藤をよそにあらぬ方向に突き進むことがあります。
創作の中の個性たち
この物語の主人公の「あひる」のように、悲劇要素をたっぷり詰め込んだはずの主人公が、思わぬ展開を導く事は、物語創作の世界では特段珍しい事ではありません。
もう初期設計の段階で間違っていて、実は助かる要素があったとか、切り抜ける方法があるだとか、いっそ誰かを馬鹿にしないと望み通りの展開にできないということに、肝心な場面に行きついた段階で気付く。もっと書くと、場面に到達する前段階ですでにおかしな方に向かっていて、未知のルートに突入していたということも(これを俗に「キャラクターが勝手に動き出す」と言ったり、そのように感じたりすることがある)。
多くの場合、まだ確定していない展開より、すでに固まってしまっている登場人物のキャラクター性を尊重しつつ少し遠回りでも自分の想定した展開に軌道修正する・・・。という感じになるのですが、舵きりを間違えると、そのまま180度違う展開になることも・・・。
その方が最初に考えた話よりずっと面白かったという事もあるから、創作というのはままならないものです。
2部ではふぁきあがペンを握って作者に対抗する事で強調されるこのメタフィクション展開。「悲劇を望む作者」と「幸せな結末を望む登場人物」の対決はそうした物語を書く上での作り手のジレンマが良く描かれています。「現実に引っ張られる」――これもまた良くあることです。
1部から丁寧に描写してきた複数のモチーフや、キャラクターそれぞれが物語の登場人物であることも、この筋書きを引き立てています。キャラクターが突然視聴者の方向を見て語り出す、物語であることを強調し始める――その事を心地よく感じさえするメタフィクション的な魅力がこの作品にはあります。
少ない頭身で表現される美しい人間動作
私はこの作品を視聴するまで、人間動作の美しさは八頭身なければ表現できないだろうと思っていました。しかしこの作品では、デフォルメされた少ない頭身で軽やかさや重さ、力強さや儚さ、様々な人間動作の美しさが表現されています。
指先の動きや足の表情、目線の流れといった細部までとても色気があり、「これが人間動作の美しさだ」という要点を捉えた、アニメーションとしても完成度が高い作品です。この部分についてあまり多くを語るのは無粋だと思うので、ぜひ一度視聴してみてください。
好きな話とキャラクター
通しで見る事をお勧めしたい作品です。特に、1部の13話までの構成は息を呑むような美しさです。そのうえで、特に好きな話を紹介。
2.AKT
るうちゃんのリードが眩しい2話。この話に限らず、「白鳥の湖」をただの添え物で終わらせない気概が作品全体から感じられます。もしクラシック音楽やオペラ、バレエを少しでも知っているなら、全編通して曲の使いどころにぐっとくることでしょう。
3.AKT
サブタイトルに「眠れる森の美女」とつづられた第3話。眠っているのは誰だろう。何から目覚めなければならないのだろう。呪いとは何だろう。そんなメタファーに思いを馳せても良いですが、私は純粋にこの料理店夫婦の話が好き。
4.AKT
死してなお踊り続ける、4話。るうちゃんと花嫁のバレエ対決から、プリンセスチュチュチュ登場までの流れがとても好き。すでにお気づきでしょうが私はるうちゃん推しであります。
5.AKT
感情を取り戻し始める王子と、王子の変化に戸惑う主要人物が気になる5話。この話のランプさんと、最後の踊りのシーンがとても好き。
6.AKT
夫婦の絆が眩しい6話。プリンセスチュチュの力を借りずに王子の「心」の影響から逃れたという意味で珍しい話でもあります。個人的には、2話とのリードの対比もたまりません。
7.AKT
まるで役に立たないデウスエクスマキナが面白い、7話。メタフィクションとしての魅力がここからどんどん加速していきます。ここから13話辺りまで、途切れなく続く構成が見事…。
10.AKT
ふぁきあの本心に触れる、10話。あひるは加藤奈々絵さん以外ありえないと確信した回でもありました。最後の数分のくだりがとてもすき。
12.AKT
美しい「転」、12話。13話が染み入るのはこの話があってこそ、と私は思っています。あひるとふぁきあのやり取りが良い。二人で手を繋いで泳いでる場面がすごく好きなんですよね。
18.AKT
ふぁきあの葛藤が描かれる、18話から20話。あひるとふぁきあの関係性は、一緒に難題に立ち向かう中で、いつの間にかお互いを大切に思うようになっていた・・・というのがたまりません。
22.AKT
物語と現実の狭間で苦しめられる主人公の葛藤も魅力の22話。
23.AKT
そして、作者vs登場人物の様相がはっきりとする23話までの流れが本当に美しい。個人的には一般人には白鳥にしか見えない設定が好きです。
25.AKT
2部の「転」もとても良い。あひるとふぁきあの絆が描かれるところもたまりません。
26.AKT
物語を乗り越えていく26話。私はこの展開と物語の着地点がとても好きです。その中でも、最後の「あひる」の踊りが印象深いです。
それと、作品全体を通してふぁきあ派の私ですが、みゅうとの告白にはぐっときました。るうちゃんを幸せにしてくれよ・・・!